手に取った蜜柑が美味しい4日目。
文章を書くことも、料理をすることも、楽器を演奏することも、歌を歌うことも、全て表現だと言えるし、全ての表現は経験を重ねることでしか上達はしないのだと思う。感情を誰かに伝えるにしても、少しずつ、言えるところから伝えていくのだなと。そしてそれには時間と労力を惜しんではならないのだと。上手くなりたいなら、必ず通る道だ。
私は本当に好奇心旺盛で、すぐに興味があちこちに飛んで行く。フットワークも軽い。これは本当に最強の強みだと思っているんだけど、軽いと言うことは重みがない。落ち着きがない。
そう、継続力が著しく欠如しているのだ。
継続力に欠けていて良いことなど何一つ、ない。マジで、ない。本気で、ない。
物事が身につかない(ついたとしてもインスタント。メッキだしすぐ剥がれる)し
(人目を気にして生きていないとはいえ)「何をやっても続かない」ことの印象はとても悪いし、信用問題に容易く繋がる。
義務感によってつなぎとめられた継続性は形骸化も甚だしく、「身体で覚える」と言う一つの目的は達成されるにしても、そこには情熱だったり、好きと言う気持ちはもうないかもしれない。
それはそれで、そんなこと継続してて楽しいの?と言う、人生の基盤に語りかけてきそうな質問を生んでしまいそう。
今の私が、今のところ(未来に約束しかねるので)続けているものは
料理
ギター
ボイトレ
なんらかの文字表現(ブログ、ツイッター等)
である。
続ける、の定義は緩くしている。きつくしたら続かないから。どれほど緩いかと言うと
やめても再開したら、続けてるのうち
なくらい、緩い。毎日やること、とか、三日に一度はやること、とか、そんな制約をかけたらただでさえ継続力のない私は「またできなかったorz」と自己嫌悪に陥ってやらなくなること必至だから。
力がないから添え木をするして超えて行くわけ。
そんなこんなと続けて行くうちに、そのうち、「やらないと気が済まなくなる」ことがいくつか出てくる。そこまで来たら、もう続けないことの方が気持ち悪くなるんだからしめたもの。蒔いた種が芽吹いた瞬間だなと思う。そこから花を咲かせるに至るまでには、もう少し時間がいるかな。咲き続けるとなれば更に。そしてまた出てくる、継続の道。
ここまで書いて、そして自分の人生を振り返って思うのは、私は手を替え品を替え、「表現すること」は続けているのだと思う。方法だけ見たら続いていないだけで。そろそろ方法を絞って、突き詰めて行くフェーズに突入しても良いかなと思う。そんな私の目の前に今あるものは、ギターと包丁と、パソコンだ。
こうやって「できていることを見つけて自分で褒める」のも継続のコツだよと声を大にして言いたい20170507。
GWなんて無関係な3日目。
先日、昔好きだった人に4年振りに会ってきた。1時間にも満たない時間、お供はアイスカフェラテ。
彼とはたった一度ハグをしただけで、告白するも付き合うもフラれるも一夜の関係を持つも何もないから、燻んだ思い出が何ひとつない。
私が好意を持っていた時彼には彼女が居て、私はその彼女さんのことも大好きだったから、彼とどうこうなろうとかそんな気も当時から全くなかった。今思えば当時抱いていた好意は、恋愛感情というよりも憧憬だったのかもしれない。
もともと仕事仲間だった彼とは、私が職場を離れたことで縁がほぼ切れていて、会えたらいいなと思いつつも私が勝手に後ろめたさを感じていて会えず終いとなり、最近にまで至っていたわけだけど。
どうやら縁は切れていなかったようで、数ヶ月前に彼が気まぐれに乗せて私に電話をして来たことで、それが表に出て来たわけだ。
そこから、たまにLINEする程度の交流が復活し、会う運びとなる。
昔好きだった人、に会うのは人生初めてのことで、久しぶりすぎて何を話したらいいのやら、どんな顔をすればいいのやら…そんな元彼に会うわけでもないんだからさ!!とあちこちから突っ込まれそうなグルグルモヤモヤを携えて、指定の喫茶店に行ったわけだけど。
そこに居たのは、少し痩せたこと以外は何にも変わらない、その人だった。
1時間弱一緒に過ごしたけど、やっぱりどう過ごしていいのか分からなかった。多分私は彼のことが今でも好きすぎていて、でもそれは恋とはまた違って、妹のように可愛がってほしいんだって想いだと感じてる。大きな手のひらで、頭をぽんぽんと。してほしいなと、そんなことを感じてる。
大好きだったあの人は、今でも大好きだったあの人で。
今でも、今でも大好き「だった」人なんだなって思った。
その気持ちにingがつくことはなさそうで、現在を共にできるのに
なぜか「過去の人」を見ているような気持ちになる。
4年のブランクはこれからどういった形で埋まって行くんだろう。
またもう少し、近い存在になれるかな。もっと会えたらいいんだけどなあ。
そうすることで、過去の人が現在の人に、少しずつ変わって行く気がするんだよ。
気のせいかもしれないけど、さ。
文字校正の仕事から逃避するがごとく、思い出と今の狭間を旅する20170503。
オール明けの2日目。
姐さんと呑んだ。
いろんないろんないろんな話を自分なりに咀嚼してモスコミュールで流し込み、溢れ出た思いは歌に乗せて喉を枯らすほどに出し切り、空虚と隣り合わせになった心の中にそれでも尚居残る人のことを考えながらそこにいたら、気付けば閉店時間になっていた。
大切にしたいものがありすぎる、のだろうか。
でもその真髄は、結局のところ、それらを大切に思う(無碍にしたくない)私自身を大切にしたいだけのように思う。それはただのエゴなのだろうか。私は私の「好き」を何より大切にしたいと思っているけれど、それでもやはり、それを受け取ってもらえなかったら、とか、「私の好き」の範疇を超えたところまで考えてしまう。こと恋愛に関して。受け取る受け取らないは相手のフェーズだし、それでも好き!と思うか思わないかだけが自分に許された活動であって。もちろん何をしてもいいというわけではなく。
こうしてズルズルと考えたところでドツボにはまる以外の道が見えないので、こういう時は身体を動かしたり無心になって料理するのが一番いいと思われる。そろそろ小豆を炊きたい20170425。
逆さのアイコン直せない初日。
さほど困らないのでとりあえず放置。
お前はなんらかの形で自分を表現したいだけやろ、と、何年か前に言われて、その時はなぜか、自分のしていることを否定されているような気持ちになった。
時間が経過して、自分もそれなりにある程度のことが許せるようになった今、それは当然自分に対してもそうで。
なにかひとつに決めて動かないといけないと思い込んでいた自分に、「その時一番やりたい形で」何かを表現することを許すことにした。
書くも、描くも、歌うも、弾くも、動くも。みんな好き。だから、その時出したいように自分を出す。最近自分の中で一番熱が高いのは歌うこと。
これからの自分というものに、少しは期待してもいいかな?と思えた20170423。